1964年札幌市生まれ。札幌南高、北大法学部卒。松下政経塾卒塾後、枝野幸男衆議院議員政策秘書。埼玉12区から衆議院議員選挙に2回当選。民主党副幹事長、内閣総理大臣補佐官、経済産業大臣政務官などを歴任。2017年10月第48回衆議院議員選挙に北海道4区より立憲民主党公認として闘い、比例区で当選。

 

政党のスタッフ、枝野幸男の政策秘書からの叩き上げ。衆議院議員を2期務め、総理大臣補佐官や経済産業大臣政務官などを歴任。「事業仕分け」では仕分け人として税金の無駄遣いを徹底的に指摘しました。政策や法律の立案はもちろん、政策を「どうしたら実現できるか」までを知りつくした政策のプロです。・・・政権中枢でも活躍した政策実現の即戦力です。

薬害エイズ問題に取り組み始めたときも、被害者のみなさんの悲痛な叫びが原動力でした。 不正や不公正を許さない、弱い立場の方に寄り添う熱い思いは誰にも負けません。・・・人の痛みに熱くなれる熱血漢です。

何が問題か知ることができるのも、解決の糸口を見つけることができるのも地域、職場などの現場です。現場の生の声をしっかり聞いて国政に届けます。・・・地域の声を聞く「現場主義」です。

学生時代から訪れた国は、イラン、エチオピア、タンザニア、北朝鮮など途上国中心に50カ国以上を行脚。バングラデッシュの電気のない村に寝泊りして援助の実態調査、欧州連合(EU)本部のあるベルギー・ブリュッセルで欧州統合についての研究、総理に同行してのサミット参加など地球視野の国際派です。・・・地球を歩いた「世界のホンダ」です。

ビールを飲みながら楽しくワイワイやるのが大好きです。気分転換は、カラオケと温泉。大きな体、大きな声で突き進みます。・・・明るく元気な51歳です。



 



1964年(昭和39年)


北海道札幌市生まれ


札幌市ひばりが丘団地(現在の厚別区)でサラリーマン(旅行会社勤務)家庭の長男として生まれました。幼稚園時代、南区澄川に転居し、その後、澄川小学校、澄川中学校、札幌南高で学びました。

1988年(昭和63年)


北海道大学法学部卒業


主に政治学を勉強。論文は、フランス社会党・ミッテラン政権の誕生についてでした。「日本でも政権交代を」との思いを強くしました。 学習塾の学生講師のアルバイトにものめり込み、他の先生との競争心もあり教え方の研究に燃えました。英語を学ぶため、アメリカの語学学校に留学、世界中から来た若者と友だちになった貴重な体験でした。uhb少年の船のテーマソング「白い船で」を作詞したのもこの頃です。

二つの体験が政治の道を意識させ始めました。新聞社のアンケート調査のアルバイトで道北のある小さな町に行きました。支持政党や政策への賛否などを戸別に回ってお聞きするのですが、大学で学ぶ「机上の政治」とは違う生活に根差した政治の姿を垣間見ることができ、政治の大切さを実感しました。

また、辻元清美氏などが主宰していた「ピースボート」に参加、フィリピン、ベトナムを多くの若者と船で回りました。その途上、私たちの船がベトナムから命からがら逃れてきた難民「ボートピープル」の漂流船を救助することになりました。政治のあり方が生命にまで影響すること痛感した出来事でした。

1992年(平成4年)


松下政経塾卒塾


関心はあったものの、政治への道は思いもつきませんでしたが、大学に貼られていた松下政経塾の募集ポスターに目が留まりました。いろいろ調べるうちに、ぜひ入塾したいとの思いに。保守色、タカ派色の強い方ばかりではとの心配はあったものの、面接でリベラル色、ハト派色を前面に出した私を合格させていただいたことで、その疑念は払拭されました。一期先輩の前原さんなどと安全保障政策でしばしば激論したこともよい思い出です。

多くの現場を知るために、佐賀県有田のタイル工場実習、全国各地の市民運動の聞き取り調査、バングラデッシュの電気のない村など途上国での日本の援助に関する調査、ベルギー・ブリュッセルでの欧州統合の調査など「現地現場」での研修を積み重ねました。

政治の現場を知る研修で知り合ったのが、若かりしまだ無名の菅直人衆議院議員でした。

1994年(平成6年)

新党さきがけ政策スタッフ


菅議員の紹介で新党さきがけの政策調査会スタッフに。直後に自社さ連立政権が成立、自民党、社会党のベテランスタッフと対等に張り合う立場になりました。若輩ながら小さな党の主張を少しでも通すために必死でした。

1994年(平成6年)


衆議院議員枝野幸男政策担当秘書
薬害エイズ問題はじめ医療・福祉、行政改革などを中心に数多くのテーマに取り組む。


国会議員政策担当秘書の資格を取得、新党さきがけの新人議員であった枝野幸男氏の政策担当秘書となりました。以降10年、主として国会で枝野議員の政策活動をサポート、特に菅、枝野両議員が名前を知られることになった薬害エイズ問題の追及では、厚生省内の資料発見につながった「質問主意書」の作成など裏方でサポートしました。菅厚生大臣の被害者の皆さんへの謝罪の現場にも同席、政治の力で大きな壁を動かすことができることを実感しました。党綱領の「生活者、納税者、消費者の立場に立つ」との文言の原案も作成しました。

2003年(平成15年)

田並たねあき衆議院議員の後継として民主党埼玉県第12区支部長に就任

若手の中でも頭角を現す枝野議員の政策秘書、やりがいがあったのですが、やはり政権交代のためには自分も選挙区で戦いたいと思うようになりました。家族や知人もいる北海道の選挙区は現職の方で埋まっています。枝野議員と同じ埼玉県、暑さで有名な熊谷など埼玉12区の現職が引退することになり、その後任として立候補することになりました。自民党が非常に強い選挙区で知り合いはゼロからのスタートです。「落下傘」「よそ者」との批判の中、5回戦い、一度は比例区で繰り上げ当選、もう一度は小選挙区で当選させていただきました。

2003年(平成15年)


衆議院議員選挙で75439票を獲得するが、惜敗。

2004年(平成16年)


比例区での繰上げにより衆議院初当選。

1期目


■衆議院:安全保障委員会委員/イラク支援特別委員会委員
■民主党:情報公開法PT事務局長/薬害肝炎WT事務局長

一期目は、安全保障委員会、イラク支援特別委員会などに所属。自衛隊の安易な海外派遣を許さない姿勢は当時から一貫しています。今後も「現実的な議論ができるハト派」を目指します。秘書時代から取り組んできた薬害や情報公開の問題にも取り組みました。


この頃、同じ菅グループの同僚であり、議員会館の部屋も隣同士だった新潟1区選出の西村智奈美・衆議院議員と知り合い、私が浪人中に結婚しました。

2005年(平成17年)


2005年、前回より9千票伸ばし、84,705票を獲得するが、惜敗。

2009年(平成21年)



第45回衆議院選挙において、
138,727票(得票率57.2%)を得て、衆議院議員となる。

2期目


■衆議院:消費者問題に関する特別委員会筆頭理事/経済産業委員会委員
■民主党:副幹事長/国会対策副委員長/選挙対策副委員長/消費者問題PT座長/抗がん剤総合対策WT事務局長/行政刷新PT事務局次長/埼玉県総支部連合会幹事長
■政府:内閣総理大臣補佐官/経済産業大臣政務官


四年の浪人を経た二期目は、政権与党の中での活動となりました。 特別会計の「仕分け人」、本番の議論自体は短時間ですが、準備に膨大な時間をかけました。ムダに切り込む一方、国有林野特別会計の一般会計化など必要な事業の存続が可能なスキームを構築することもできました。

副幹事長時代、東日本大震災が発生しました。徹夜で対策本部に詰め、被災地の声を政府各部署に伝えました。混乱も多く、すべてに完璧な対応はできませんでしたが、今でも被災地の方から感謝のお便りをいただきます。


野田政権では、内閣総理大臣補佐官に就任しました。担当は内政の省庁間調整。震災復興、原子力被害の賠償、再生エネルギーの推進、自殺対策、硫黄島の遺骨収集など複数の省庁にかかわるテーマを担当しました。大きなテーマでは、党内に様々な意見のあった「原発ゼロ」政策の決定に尽力しました。総理の被災地視察やサミット出席などにも同行、政治家として貴重な場となりました。若手議員の様々な声を聴いて、官邸にその空気を伝える役割も担いました。

内閣改造後は、枝野経済産業大臣の政務官に就任、枝野大臣の進める原発ゼロへの道筋をサポートしました。再生可能エネルギーの推進はもちろん、中小企業政策など新しい分野にも取り組みました。

民主党政権は、高校無償化で退学者を大きく減らし、医療予算の確保で救急車のたらい回しをなくし、三万人を越えていた自殺者もようやく減り始めるなどニュースになりにくい実績は積み重ねました。しかし、守れなかった公約も多く、党内も混乱を繰り返し、国民の皆さんの期待に十分に応えることができませんでした。責任を痛感し、お詫びしたいと思います。官僚との関係ひとつとっても、「官僚と対決ばかりしていた」「官僚にとりこまれた」など両面の反省があります。これらの経験や反省をもう一度政権を担わせて頂く際にしっかりと活かしたいと思います。


2012年(平成24年)~

第46回衆議院選挙において落選

埼玉での落選中も、昨年の突風被害、本年2月の雪害などに素早く対応、関係機関に働きかけ速やかな救済策を実現させました。

2015年


「故郷・北海道で再挑戦したい」との思いで、鉢呂吉雄氏(現参議院議員)の後継として北海道4区に転区。

2017年


第48回総選挙で当選 直前の民進党「解体」に際し、信念を貫き希望の党には行かず、立憲民主党から出馬。選挙区では惜敗するも、比例区で当選。

2021年


立憲民主党を離党、衆議院議員を議員辞職
次期衆議院選挙に北海道4区から立候補しないことを決断